えっ、久保建英が結婚? 相手は福原遥?
一回、文字を読み直したくなる。久保建英。福原遥。うん、名前は知っている。もちろん二人とも知っている。でも、その二つの名前が一行に並んでいることを、頭がなかなか受け付けない。 サッカーのスタメン発表で、右ウイングの欄に突然「まいんちゃん」と書いてあったくらいの処理落ちだ。いや、たとえがおかしい。分かっている。おかしいくらい驚いたのだ。
10月2日、二人がそれぞれのInstagramで結婚を報告した。写真と連名の文書も公開された。久保は25歳、福原は28歳。年齢だけ見れば、結婚を聞いて驚くような話ではない。なのに驚いた。移籍の噂には毎回「本当か?」と身構えるくせに、これは身構える暇がなかった。
おめでとう。心からそう思う。そのうえで言わせてほしい。
久保、いつの間にそんな大人になったんだ。
ニュースを追う側の頭には、いつも棚がある。久保の棚には先発、ドリブル、移籍、代表。福原の棚には映画、ドラマ、テレビ。どちらの棚にも見覚えがあるのに、二つが急につながるとは思っていなかった。だから驚く。もちろん、棚を分けていたのはこちらの勝手だ。二人はニュースの分類に合わせて暮らしているわけではない。そりゃそうだ。だけど、その当たり前が、こんなにも鮮やかに突き刺さることがある。
しかも、久保のニュースでこのところ身構える言葉といえば「移籍」や「契約」だ。大きな見出しを見ても、まずは情報源を確かめて、相手クラブを確かめて、本人が何を話したのか探す。今回も反射的にそうしそうになった。でも届いたのは、どこかのクラブの関心でも、誰かの予想でもない。二人自身からの報告だった。これは「もしかすると」ではなく、もう決まった話。その温度差で、さらにもう一度びっくりする。
「久保くん」は、ずっと「久保くん」だった
久保を見ていると、年齢の感覚がおかしくなる。子どもの頃からバルセロナの下部組織でプレーし、今は欧州と日本代表のピッチに立つ。こちらの頭には、今も「若い久保」がいる。
ところが、本人は当然ながら、こちらの頭の中にある少年のまま止まっていない。クラブでも代表でも、相手に囲まれながらボールを受けるのは今の久保だ。もうずいぶん前から、誰かに守られるだけの「天才少年」ではなかった。それでも記事を読んだりプレーを見たりする側は、つい「タケはまだ若いから」と言う。25歳だ。まだ若い。確かに若い。だが、「まだ若い」は「まだ子ども」と同じ意味ではない。
このニュースでびっくりした理由は、お相手の意外さだけではないと思う。久保の人生がこちらの想像より先に進んでいたことを、唐突に突きつけられたのだ。普段は週末の出場時間や次の移籍先ばかり気にしている。そこへ急に、本人から人生の大事な報告が届いた。そりゃ、頭も一拍遅れる。
「まいんちゃん」だって、もう28歳だ
そして福原遥だ。子役時代の『クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!』を覚えている人には、今も「まいんちゃん」という呼び名がすぐ出てくるかもしれない。俳優として仕事を重ねてきた今の福原を知っていても、あの呼び名は消えない。久保の「くん」と、福原の「ちゃん」。なんだこの、二人まとめてこちらの時間を巻き戻す感じは。
二人とも、かなり早い時期から人前に立ってきた。だから見ている側には勝手な親しみがある。親戚でも友人でもないのに、「小さい頃から知っている」と感じてしまう。もちろん、知っているのはテレビやピッチの上の姿だけだ。その距離感を忘れてはいけない。でも今回の驚きには、その長い時間が確かに混ざっている。
少し変な言い方をすると、祝福しながら年表を見直している気分になる。福原が子役としてテレビに出ていた頃、久保もボールを追っていた。テレビで見る子どもと、サッカー欄で追う子ども。それぞれ別の場所にいた二人が、同じ「結婚」の見出しにいる。ドラマなら脚本家に「急に話を進めすぎ!」と言いたくなる。でも、これは二人の現実だ。こちらが知らない間にも、何年も何年もちゃんと時間は進んでいた。
25歳と28歳の二人が結婚した。普通なら、祝福して終わる話だ。ところが頭の中では「久保くん」と「まいんちゃん」がまだ走り回っている。現実の二人はちゃんと大人になっていて、止まっていたのはこちらの呼び方と記憶のほうだった。少し恥ずかしい。でも、ちょっと笑える。おめでとうの後に「え、俺たちだけ置いていかれてない?」が来るのも、こういうニュースならではだ。
代表の仲間たちの祝福まで、いかにもサッカーの人たちでよかった。ORICON NEWSによると、長友佑都はおなじみの「アモーレ」を持ち出し、田中碧は移籍市場の決まり文句のような「Here we go」で祝ったという。大まじめな発表文の横で、このちょっとした軽口。なんだかいい。びっくりして固まっていたこちらも、ようやく肩の力が抜けて「おめでとう!」と言える。
知りたいことは山ほどある。でも、そこは空白のままでいい
結婚が突然発表されたから、驚きも強かった。どう知り合ったのか。どんな時間を過ごしたのか。スペインと日本での生活はどうなるのか。気になるのは分かる。サッカーを追っていれば、久保のニュースはいつも次の試合や次の移籍先に結びつく。つい結婚まで同じ調子で「今後への影響」を探したくなる。
でも、二人が公表していないことは、分からない。それでいい。ネットに出ている「馴れ初め」や「匂わせ」をつなぎ合わせて、知った気になる必要はない。突然の発表が楽しいのは、知らなかった部分を勝手な物語で埋められるからではない。本人たちが、自分たちのタイミングで知らせてくれたからだ。
何より、結婚は久保の次戦の予想材料ではない。ゴールを決めたら「新婚パワー」、決められなければ「家庭に気を取られた」――そんな雑な採点表を持ち込んだ瞬間、このニュースは急につまらなくなる。家庭の話を都合よくプレーの理由にするより、ピッチではピッチで起きたことを見たい。
久保が右で受けたら、また仕掛けるかもしれない。狭いところで一人かわして、「そこ通すの?」というパスを出すかもしれない。逆に、ボールを失えば「そこは早く離せよ!」とも言うだろう。それでいい。結婚を祝うことと、サッカーに熱くなることは、別に仲良く並べておける。
むしろ、次の試合はいつもどおりの目で見たい。パスが通ればうれしい。仕掛けて奪われれば悔しい。久保本人が何も言っていないのに、そこへ勝手に「新婚だから」を貼り付けると、肝心のサッカーが見えなくなる。お祝いの話はお祝いの話として大きな声で喜ぶ。試合の話は試合の話として、遠慮せずに熱くなる。そのほうが、久保のことをずっと面白がれる。
次に見る久保は、同じ久保だ。でもこちらの見方は少し変わる
天才少年と呼ばれた選手が、大人になった。そんな一文にすると、あまりに当たり前だ。久保は一夜で変わったわけではない。変わっていくところを、こちらが見落としていただけだ。たぶん福原についても同じだろう。二人の結婚でいきなり知らない誰かになったのではなく、もともと私たちが知っていたのは、それぞれの人生のほんの一部だった。
だからこそ、今回の一報は妙に効く。久保のゴールなら動画をもう一度見ればいい。パスの意図なら次の試合で考え直せる。でも、時間がこんなに進んでいたという驚きにはリプレーがない。久保が25歳で、福原が28歳で、二人が自分たちの言葉で結婚を知らせた。それを聞いて、ようやくこちらの時計の針が追いついた。
それにしても、めでたい。びっくりした。少し笑った。そして、次の試合がもう見たい。ピッチで久保がボールを持ったら、たぶんいつもどおり叫ぶ。
「タケ、そこは打て!」
ただ、人生の選択に向かって「そこは打て」とは言わない。そこはもう、彼自身がちゃんと決めている。
二人とも、おめでとうございます。

